見た目至上主義のゲイ業界で生き延びるたったひとつの方法〜ルッキズム・ミスコンの是非〜
先日、こんなツイートをみてぼくは違和感を覚えました。
一言でまとめると、『二重のゲイには人権がない、嘘』と書いてあります。
「最後に二重も結構モテるよ!」みたいなフォローもありますし、特段何もおもわなかったんですが、「二重,ゲイ」とTwitterで検索してみると、「おれ二重だからモテないのかな……?」という若ゲイたちのツイートをみつけてしまいました。
誰かがネットに放った刃物が砕けちって、誰かの柔らかい心に浅くでも刺さってしまっているのがとても嫌でした。
言葉って、想像以上に刺さるんですよね。
言葉は、誰かに生きる希望を与えることもあれば、死においこむこともある。それが正論でも邪論でも、どちらでも。
だからそういう刃物が飛びちった時に、お鍋の蓋でいいから自分を守る「自分の考え方」を心が柔らかめな人にはもっていてほしい。
……話をもとにもどしますが、
このツイートって「一重の方がモテるよね」っていうことを強めに言いたかっただけだと思うんです。
ツイートした人にそこまで悪意があるようには思わないのですが、悪意がどうこうはおいておいて、色んな違和感があったので必死に言語化してみることにしました。
先日、ぼくがやっているPodcast前髪ゲイラジオでもルッキズムの話がでてきて、「ミスコンのように見た目を競うのはルッキズム的にどうなのか? 時代錯誤じゃないのか?」という話がでてきて、その時のモヤモヤが残っていましたし。
【ハッシュタグ回⑧配信】
— 前髪ゲイチャンネル👦🏻YouTube (@maegamigay) 2020年2月9日
復活回、ハッシュタグ回の感想ツイートを読みましたー!
今回のポイントは永遠のテーマ『ルッキズム』
あぁぁ、また議論を呼んでしまいそうだ……🤦♂️
詳しい方教えてくださーーーい🥺
※概要欄に時間と名前の一覧があります
soki https://t.co/fqW5Fs76IB
考えてみた結果でてきたのは「個性とクオリティは別物である」ということと、「感性と意見を取り違えたらあかん」ということです。
個性とクオリティは別物である とは?
先程のツイートを例としてみていきます。
この一文なんですが、一重という『個性』の話と顔面偏差値という『クオリティ』の話がごっちゃになっちゃってるのに違和感を感じました。
例えばゲイの中で統計をとったとして、一重という『個性』が好きな人の割合が70%で、二重という『個性』が好きな人の割合が30%だとします。
ゲイは筋肉や髪型などの『個性』もモテの大きな要素なので、二重意外の『個性』をすべて無視して一重である人が無条件に上位70%になるという言い方は無理があります。
揚げ足をとりたいわけではなくて、『個性』と『クオリティ』は全然違うってことが言いたいです。
例えば、クリスティアーノ・ロナウドが二重だろうが一重だろうが、そこらへんを歩いている一重の人よりは大抵『クオリティ』が高いと思うんですよ。
で……、ツイートの話にもどすと、個性については好き嫌いが分かれるのは当然だし、「おれは一重が好き!」は全然言ってOK。
だけど、「一重の人と二重の人を比べると二重の人はクオリティが低い」は、言葉として成立していない。
『クオリティ』はトータルの魅力って感じの意味で使っています。
ゲイの性質的には『個性』を重視する人の割合が多い気がします。
反対にストレートの男性って、『個性』よりも『クオリティ』を重視する人が多い気がします。
例えばノンケの友達と話していてよく感じるのが、系統よりも質をみている部分です。
森ガール・ギャル・清楚とかそういう『個性』の好みももちろんあるけど、結局ジャンル関係なくある程度かわいい子ならなんでもいい! みたいな。
多分子孫を残す上で趣味趣向に近い『個性』よりも、遺伝子の良質さである『クオリティ』を重視してる違いからくるんじゃないかと思っています。
偏見ととられても仕方ないと思うんですが、なんとなく分かりませんか?
ノンケの友達のタイプとか性事情きいていると、ゲイって自分が属している銀河からでたくない、でられない、そんな人が多いように見受けられます。一昔まえ、ゲイというものが性的指向ではなく趣向として捉えられていたのがちょっと分かるというか。
たまに、銀河関係なく圧倒的な顔面『クオリティ』で系統関係なくモテる人もいますけど、男女ほどその効力は高くないと思っています。
じゃあ『クオリティ』を競うミスコン・世界で最も美しい顔ベスト100はどうなのか?
んで、じゃあ順位をつける「ミスコン」はいいの? って話なんですけど、ぼくてきには全く問題ないと思います。
ミスコンとかって、ドラクエでいう「魅力」というステータスをその時代に合わせた数値(支持)に置き換えて評価する催しだと思うんです。
これって、才能に順位をつけて尊ぶアカデミー賞とか芥川賞とかと同じことなんじゃないでしょうか?
じゃあなんで他の賞は尊ばれるのに、
見た目を競うことだけは非難されやすいのか?
知力・文才・商才・音楽の才能とか、はたまた大食い選手権というまれもつ才能を競うことはたくさんあるのに、なんで見た目だけは「ルッキズム」と言われ非難されるのか?
多分それは劣等感を感じる人が全人類に及ぶからなんじゃないかと思っています。
単に矢を放ったあとの的がでかいだけ。そしてよく突き刺さる。
文才に劣等感を感じる人って、普段から文章を書く人に限定されるじゃないですか。
ただ見た目の美しさって24時間効力を発揮しつづける上に、どんなフィールドにいる人でも持っているステータスで、毎日鏡をみる以上考えざるをえないステータスだと思うんです。
文章を上手に書きたい欲をもつ人が世界に1割いるとしたら、自分の見た目を魅力的に見せたい人って9.8割ぐらいそう。
しかも見た目は掛算になりやすい。
人の価値を増幅しやすい特殊効果をもっています。
文才 × 美女
音楽の才能 × 美女
年老いた × 美女
消防士 × イケメン
人は本能的に感じとっちゃうんです、自分と生物としての価値の差を。なにか特定の才能だけなら負けてもいいけど、おまけに見た目も……? 勝ち目ねーわwwwwって。
鳥が美しい羽を手に入れたのは自分を美しくみせて「生物としての価値」を、同じ種族の相手にアピールするため。
人間も例外なく動物なので、見た目が美しいのは生存戦略的に有利なのが現実です。
ただ誰もがその現実をまっこうから受け止められるわけじゃない。
人間は誰しも自分が主人公だから世界は平等だと思いたがります。自分が他の人に比べて不利だとは思いたくない。
だから度を越した他人の美貌は、突如自分に現実をつきつけてくるんですよ、「この世は不平等だ」って。
そしてここをこじらせると、感性について話をしている人に対しても、自分にとって悪い意見を突きつけられたと捉えてしまう事故が発生してします。
感性と意見を取り違えること
小野ほりでぃさんという方が超絶わかりやすく説明しているので、こちらの記事がおすすめです。
https://omocoro.jp/bros/kiji/184590/
人は感動した時、その感性を言葉にすることがあります。
例えば富士山をみたとき。
「富士山は美しい山だ!」
この言葉って、特に環境問題に関する意見を言いたいわけでも、他の山との比較をしたいわけでもないじゃないですか。
ただそこにある山が美しいとおもっただけ。
絵画やデザインも同じ、猫をかわいいと思うのも感性。
だけど、これを人の顔に向けていってしまうとややこしくなってしまう。
「○○さんってイケメンですね!」
これを合コンで言ってしまうと、○○さん以外の参加者の顔が否定されたような雰囲気になってしまう。
だけど、○○さんにこの言葉をプレゼントした人はとても純粋に感性の話をしている場合がある。とてもとても自分のタイプの人をみたら「感動」に近い感情になることがありませんか? 「あぁ…なんて素敵なデザインをしているんだ・・・」と。
それは感性の話で、美しい景色をみたときにもつものに近いと思うんです。だからそこに勝手に意見をみいだすことは邪推にほかならない。勝手に反応して判断してしまっているんです。
「クリスティアーノ・ロナウド、ほんっっっとイケメン! 大好きすぎる!!!」
と思わず言っちゃった時に、たまたまそこに白人に対して劣等感をもっている人がいたらこんな風に受け取られるかもしれません。
「俺の前でクリスティアーノ・ロナウドを褒めるなんて!!!!! 日本人ひいてはアジア人が全員、白人より劣っているってことがいいてぇのか!?!?!」
なんて……。
そんな意見は言ってないんですよ。
チンチラの顔が好みなように、クリスティアーノ・ロナウドの顔が好みなんです。
もちろんTPOをわきまえることは大事だけど、勝手に意見のレッテルをはるのは自分のエゴイズムなんじゃないでしょうか?
だからミスコンとかも、感性を大切にする芸術の一貫だと思えばいい。
誰もミスコンを通して「不平等」を撒き散らしたいわけじゃない。
学問は人を平等にするためのものだから大学が主催するのは良くないかもしれない。
でも大学生たちが自分たちの感性を大切にすることは尊重されるべきです。
そこに外野が文句を言わなくていい。たかだか学生の催しなんて大人は無視すればいいでしょう。
どっちかっていうと遥かに「世界で最も美しい顔ベスト100」の方がやばいと思います・・・。
最後に言いたいのは、意見をうみだしているのはどこからか? ということです。
自分の心にそっときいてみましょう。
人が悩んでしまう理由の一つは、「判断しすぎる心にある」とブッタは言います。